カオスがカオスを加速させる 室町時代 の後半。 そこはもはや戦国時代であり、様々な人気武将が登場、一方で室町幕府の将軍は「誰それ?」状態へ陥ってしまします。 大河ドラマ『麒麟がくる』の放送により、 足利義輝 (13代)や 足利義昭 (15代)の注目度は上がっておりますが、その前後の11代、12代、14代ともなると名前さえ知らない方も多いでしょう。 彼らのうち今回は十四代将軍・足利義栄(よしひで)に注目してみたいと思います! 父は足利義維 12代将軍・義晴の弟です 義栄は足利義維(よしつな)の息子。 義維が十二代将軍・足利義晴の弟ですので、将軍の甥っ子となりますね。 足利義晴(12代将軍)不安定だった義輝や義昭の父 40年の生涯とは 続きを見る 天文七年(1538年)に阿波で生まれたのですが、義栄にとって不幸なことに、義維は兄の義晴と対立しておりました。 一時は将軍と同等の力を持っていながら、時勢の変化に巻き込まれるようにして、阿波に身を寄せておりました。 義維は、西国の雄・大内義興の娘を正室に迎えており、夫婦揃って阿波に移った後に義栄が生まれています。 他に弟が二人、妹が一人いたようですが、いずれも歴史の表舞台には出てきません。 すぐ下の弟・足利義助(義栄の息子説もあり)は、そのまま阿波に留まり、長宗我部氏を支援したことで戦国時代を細々と生き延びます。 長宗我部元親は戦乱の四国をどう統一した? 失意のうちに終えた61年の生涯 続きを見る そんな生い立ちなので、義栄もしばらくは阿波で暮らしていましたが、足利氏に生まれた宿命からは逃れられません。 天文二十年(1551年)。 十三代将軍・足利義輝が京を空けていた際、義維が、息子である義栄を連れて上洛しようとしたことがありました。 足利義輝(13代将軍)の壮絶過ぎる散り際! 麒麟がくるで注目されるその生涯 続きを見る 結局それは叶わず、一時周防に引いて阿波へ帰っているのですが……本人も嫌な予感がしていたでしょうね。 淡路や摂津などを転々としながら 永禄八年(1565年)には、 永禄の変 で十三代将軍・義輝が三好三人衆と松永久通( 松永久秀 の息子)に暗殺されてしまいます。 永禄の変で13代将軍・義輝が敗死に追い込まれた理由がわかる! 続きを見る 松永久秀は爆死ではない! 信長を二度裏切ったが実は忠義の智将 70年の生涯 続きを見る その後、三好三人衆と久秀が手を切ったとき、三人衆は新たな将軍として義維を担ごうとしました。 が、その頃の義維は中風になっていたため、代わりに息子の義栄を担ぎ上げることにします。フラグ回収乙。 そこは仮にも武家の棟梁たる家の人です。 義栄も覚悟を決めたものか、三人衆に久秀討伐を命じるなどしていました。 立場的には、淡路や摂津などを転々としていて、全く落ち着いていませんでしたが……ありがちな暴君ネタなどもなく、有能というエピソードはないにしても、悪人でもなかったのでしょう。 一方、京では出家していた義輝の弟・足利義昭(後の15代将軍)が還俗し、兄の後継者になろうとしていました。 つまり、この時点ではどちらが次の将軍になるのかが定まっておらず、いわば「早いもの勝ち」な状況だったともいえます。 足利義昭は細川も織田も味方につけて…… 義栄と義昭の決定的な違いは、庇護者の力でした。 上記の通り、義栄を担ぎ上げたのは三好三人衆です。 一方、義昭を庇護して京を脱出したのは、あの 細川藤孝 (後の幽斎)をはじめとした、義輝の側近たちです。 細川藤孝(幽斎)は文武芸術に通じた光秀の盟友なり!されど本能寺後は?
続きを見る 足利義昭(覚慶)61年の生涯! 信長と共に上洛し京を追われてどうなった? 続きを見る 義昭方の面々は文字通り東奔西走し、あちらこちらの大名に助力を求めてまわりました。 その結果、義昭らは足場が固まり始めた頃の 織田信長 の元に身を寄せることになります。 織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付 続きを見る 一方、三好三人衆はといえば、六角氏や紀伊の国人、高野山などを味方につけたものの、主筋の三好義継が織田に付いてしまい、なんとも頼りない状態。 そんな状態で義栄は摂津から京へ入ろうとしました。 朝廷との折衝を重ね、14代の将軍宣下を受けるところまでは行ったものの、京に入れないという……(´・ω・`)な状態が続きます。 しかも、この間に織田信長に奉じられた義昭が入京し、先を越される形になりました。 信長と義昭 上洛戦の一部始終! 岐阜から京都までどんな敵と戦っていた? 続きを見る さらに、三好三人衆は信長にあっさり負けてしまい、義栄は阿波へ帰らざるを得なくなります。 ※続きは【次のページへ】をclick! 次のページへ >
室町幕府15代目にして最後の将軍、足利義昭(よしあき)。織田信長を頼って将軍になったものの、仲違いから京を追放され、室町幕府は滅亡。「運がない」「傀儡(かいらい)」「貧乏公方」など言われたい放題ですが、私はこの方「わりと好き」です(推しキャラ)。 今回は彼の人生、特にあまり知られていない「追放」後をお伝えしていきます。 足利義昭「わりと好き」松本清張氏の『陰謀将軍』 足利義昭に興味を持ったのは、織田信長に京から「追放」されたからです。当時の信長なら、もっと思い切った行動に出るのでは?
朝日日本歴史人物事典 「足利義栄」の解説 足利義栄 没年: 永禄 11.
阿波 [没]永禄11(1568). 9. 摂津,富田 室町幕府 14代将軍 (在職 1568. 2~9. )
」名前を改め決意を固める 1566(永禄9)年、近江国(滋賀県)蒲生郡観音寺城に逃れた覚慶は還俗※1して、義秋(よしあき)と名乗ります。 ※1 還俗(げんぞく) 僧になった者が俗人に戻ること 義秋はしだいに自分が今までの己れではなくなり、第一義的な人物に形成されてゆくような気がした。 このころは、「将軍になるのかな……」とまだ意志が固まっていない様子。各地を転々としたり、大名に上洛の協力を要請する書状を送ったりと、落ち着かない生活をしていたので無理もありません。 しかし、従弟で阿波公方と呼ばれる義栄(よしひで)が14代将軍になるといううわさが、耳に入ってきます。父も兄も将軍だった自分の方が、血統的に正しいのに。そうなると怒りが湧いてきて、「将軍に俺はなる! 」と名前を「義昭」に改め、決意を新たにするのでした。 織田信長と出会い、ついに室町幕府15代将軍に!